いつも母ちゃんに I LOVE YOU › 実兄姉姉妹 › 対馬丸撃沈の悲劇から…今日で78年目
2022年08月23日
対馬丸撃沈の悲劇から…今日で78年目
僕の実兄・島袋 光晴(しまぶく こうせい)は
学童疎開の一人として、
対馬丸に乗船する予定がありました。
当時の兄は、那覇市の天妃小学校。
疎開するためには学校側から提出された書類に
両親の印を押さなければならない。
父の光裕(こうゆう)は賛成。
戦争で死ぬなら親子は一緒だと言い通して、
母の信子(のぶこ)は拒否。
結果的に兄は、対馬丸に乗船しませんでした。
同年(昭和19年)10月10日は
那覇市内に空襲警報が鳴り響く。
久茂地に住む母は、
長兄の光晴と長姉の恵美子は両手に、
次姉の孝子は背負い、
現在の国道58号線へと走り出して行った。
偶然に通りかかった友軍(日本兵)から声を掛けられ、
トラックの荷台に乗り込む。
多数の那覇市民と共に
北へ向かって逃げ出して行った。
親子四人は、
体に傷一つ負うことなく終戦を迎えた。
言うまでもなく母は強運だったかもしれない。
母は2005年8月25日に
浦添市の僕の自宅マンションで
僕一人に看取られて
満96歳で永遠へと旅立ちました。
母の命日は今年も、
東京で心穏やかに過ごしたい。
学童疎開の一人として、
対馬丸に乗船する予定がありました。
当時の兄は、那覇市の天妃小学校。
疎開するためには学校側から提出された書類に
両親の印を押さなければならない。
父の光裕(こうゆう)は賛成。
戦争で死ぬなら親子は一緒だと言い通して、
母の信子(のぶこ)は拒否。
結果的に兄は、対馬丸に乗船しませんでした。
同年(昭和19年)10月10日は
那覇市内に空襲警報が鳴り響く。
久茂地に住む母は、
長兄の光晴と長姉の恵美子は両手に、
次姉の孝子は背負い、
現在の国道58号線へと走り出して行った。
偶然に通りかかった友軍(日本兵)から声を掛けられ、
トラックの荷台に乗り込む。
多数の那覇市民と共に
北へ向かって逃げ出して行った。
親子四人は、
体に傷一つ負うことなく終戦を迎えた。
言うまでもなく母は強運だったかもしれない。
母は2005年8月25日に
浦添市の僕の自宅マンションで
僕一人に看取られて
満96歳で永遠へと旅立ちました。
母の命日は今年も、
東京で心穏やかに過ごしたい。
Posted by 父の名は島袋光裕です at 21:01
│実兄姉姉妹