舛添要一さん著書『母に襁褓をあてるとき』希望と勇気を頂く
朝起きたら後頭部にズキンズキンズキンと鈍痛が走る。左腕も痺れるように感じた。1998年7月3日の出来事だ。
ストレスらしきものは抱えていたが、暴飲暴食もせず、健康だけには大きな自信があった。しかし、もしかしたらという一抹の不安がよぎる。
タクシーで豊見城中央病院に直行。母ちゃんがペースメーカーの定期検査で通院している病院でもある。受付後に診察。脳梗塞の疑いがあると言われる。車いすに座らせられ、MRIの検査室へ行く。診察してくれた先生から「入院が必要」とも言い渡された。
2階の西病棟室へ案内される。身の回りを持ってないので、中央病院から車で5分くらいの所に住む、いとこ宅に電話。いとこの嫁さんが、かなり驚いた様子で駆け付けてくれた。僕からのお願いは「母ちゃんには絶対内緒にしてね」である。
入院期間は1週間以内。精密検査を行った結果、特に異常はなし。主治医から「自信過剰とストレスを抱えるのは禁物ですよ」とアドバイスも受ける。予定を繰り上げて7月6に退院した。
2002年9月に母ちゃんが豊見城市上田の家で転倒。大腿部骨折で入院をして、僕は中央病院へ連日のように行き来する。03年5月頃には母ちゃんを自宅介護しようかどうかと思い悩む。かなりの深刻である。
母ちゃんの科署とは違うが、僕を担当してくれた脳外科の主治医には何度か相談。先生が「あなたのお父様のことは存じてますよ。息子さんとは知りませんでしたけどね。お母様の世話を是非してあげてください」のエールと、舛添要一さんの著書『母に襁褓をあてるとき』をプレゼントされた。
当時の舛添さんは、テレビでしか知らない。顔だけを見ると親をかえりみないタイプにしか映らない。
こういう人がオムツ替えをしているなんて想像もしなかった。僕は良い意味でショックを受けたし、共感したのも確かである。
著書から希望と勇気を頂き、母ちゃんを自宅介護に繋げたのは事実だ。
現在の舛添要一さんは新党改革代表。元厚生労働大臣である。
『自らの介護を糧(かて)にして安心できる老後を考えます』を子育て環境とともに、政策の一つに掲げていた。
僕の人生は前進の途中。沖縄タイムス07年6月30日(土)付の『音楽への階段』で「自宅介護、自己作成者の視点で介護問題に取り組んでいく」と最終記事に書いた。勉強の真っ只中を報告する。音楽はライフワークだ。
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